妊娠高血圧症候群と腎臓:〜頑張ったあなたとあなたの腎臓へ。「お疲れ様」を伝える腎検診〜
- 臼井亮介

- 6月4日
- 読了時間: 6分
こんにちは。株式会社レノプロテクト代表の臼井亮介(日本腎臓学会専門医・指導医)です。
女性の人生における最大のライフイベントの一つとも言える「妊娠・出産」。現代の日本は周産期医療が高度に進歩しており、周産期死亡率や妊産婦死亡率は世界でもトップクラスに低い水準を誇っています。この医療の発展により、私たちは「妊娠すれば無事に出産できて普通(当たり前)」と考えがちです。
しかし、どれだけ医療が充実しても、妊娠・出産が本質的に女性の身体へ甚大な負荷をかける「命がけ」の営みであることに変わりはありません。母体の急激な変化に伴い、予期せぬ合併症を引き起こすリスクは、すべての妊婦さんに常に存在しています。
ここでは、かつては「妊娠中毒症」という名称で広く知られ、現在は「妊娠高血圧症候群」と呼ばれる病態と、それが「腎臓」に与える影響について腎臓内科医の視点から解説していきます。
増加傾向にある「妊娠高血圧症候群(HDP)」とは
妊娠中期(20週以降)から後期にかけて、それまで健康だった妊婦さんの血圧が上昇することがあります。これが妊娠高血圧症候群(Hypertensive Disorders of Pregnancy:HDP)です。HDPの発症頻度は全妊婦の約5〜10%と決して少なくありません。
さらに近年、晩婚化に伴う高齢出産の増加、肥満、生殖補助医療(不妊治療)の普及などを背景に、全妊娠におけるHDPの発症数は増加傾向にあります。決して他人事ではなく、誰にでも起こり得る、極めて身近な産科合併症の一つと言えます。
なお、妊娠前から、もしくは妊娠20週までに高血圧症を認める場合は高血圧合併妊娠と呼ばれHDPと区別されます。
重症化で現れる「妊娠腎」と、腎臓にかかる本当のダメージ
HDPが重症化すると、高血圧症だけでなく尿に蛋白が混ざる「尿蛋白」が現れることがあります。この病態は古くから「妊娠腎(にんしんじん)」と呼ばれてきました。現在は、HDP病型分類中の妊娠高血圧腎症と過重型妊娠高血圧腎症の2病型が、妊娠腎に該当しています。
多くの場合、出産(分娩)を終えて胎盤が体外へ排出されると、血圧は下がり、尿蛋白も速やかに改善・消失します。症例によっては尿蛋白が消失するまでに半年程度を要することもありますが、最終的に数値が落ち着くことで、多くの医療現場や患者さんの間では「治ったから、もう大丈夫」と安心されて終わりになりがちです。
しかし、腎臓のミクロな組織レベルでは、決して「なかったこと」にはなっていないかもしれません。 HDPを発症した妊婦さんの腎臓では、TMA(thrombotic microangiopathy:血栓性微小血管症)と呼ばれる重症型の血管内皮障害の病理像を呈していることが分かっています。細い血管の壁が傷つき、微小な血栓が詰まることで、腎臓のフィルター(糸球体)が強いダメージを受けるのです。
【専門的な視点】産後に尿蛋白という「症状」が消えたとしても、組織学的には腎臓に一定の「後遺症(キズ)」が残っていると考えるのが自然です。キズが小さい場合は回復しますが、キズが大きかった糸球体はやがて機能を失って萎縮し、周囲の腎臓組織に飲み込まれて消失します(これを**「ネフロン喪失」**と呼びます)。自然回復力でキズが癒えるか、ネフロン喪失まで進むことで尿蛋白は消え、「治った」と判断されるということです。現在の臨床医学では前者と後者の区別はできませんので、表面上の検査値が正常に戻っても、腎臓の予備力は削られている可能性があるのです。
2,000万人時代の慢性腎臓病(CKD)と、見えない「妊娠腎」のリスク
現在、日本国内における慢性腎臓病(CKD)の患者数は約2,000万人にのぼると推計されており、新たな国民病として問題視されています。この膨大な数のうち、「過去の妊娠腎(HDP後遺症)が原因でCKDに移行した女性」がどれほど含まれているかは、事実上不明のままです。なぜなら、HDPを経験した女性が、産後に長期にわたって腎臓の経過を追跡する仕組みは、現在の医療現場において事実上皆無だからです。
長い人生というロードマップにおいて、妊娠期間は短く、妊娠腎によるダメージも一見すると「一時的なキズ」にしか見えません。しかし、人間は誰しも加齢とともに腎臓は劣化していきます(腎硬化症と呼ばれます)。
一般的な腎機能の老化スピードは「年間約0.5%程度」の低下であり、健康な人でも70歳代になれば、若い頃の約半分程度まで腎機能が低下します。仮に妊娠腎によって、若い頃に腎機能の5%を失ったとしましょう。すると、老化のスタートラインが下がっているため、通常よりも約10年早い60歳代の段階で、腎機能が半分程度まで落ちてきてしまう可能性があるということになります。55〜65歳頃、年齢不相応な腎機能低下として顕性化(表面化)してくるリスクは、十分にあり得るのです。
産後の盲点:子育ての忙しさと健診の途絶
HDPを経験した女性の将来を守る上で、最も大きな障壁となるのが「産後のライフスタイルの変化」です。
出産後の女性は、休む間もなく壮絶な育児の毎日に突入します。早く職場復帰する方であれば、早々に赤ちゃんを託児所に預け、日中は仕事に没頭し、帰宅後は育児に全力投球という目まぐるしい日々を送ることになります。
自分のことは後回しになりがちで、その結果、それまで職場などで定期的に受けていた健康診断や人間ドックを、何年も受けなくなってしまう女性が少なくありません。「あのときは血圧が高かったけれど、産後に治ったと言われたから」という過去の記憶だけが残り、自覚症状のないまま腎機能低下が静かに進行してしまう——これこそが、産後医療において見過ごされがちな大きな盲点です。
未来の自分を守るために:「腎臓検診」のすすめ
妊娠高血圧症候群(HDP)を経験した女性は、将来的に高血圧症や脳心血管疾患、そして慢性腎臓病(CKD)を発症するリスクが、経験していない女性に比べて数倍高いことが近年の疫学調査で明らかになっています。
だからこそ、HDPを呈した女性には、産後の生活が少し落ち着いたタイミング(目安として産後半年〜1年後で十分)で、ぜひ一度「腎臓検診」や専門的な腎機能検査を受けていただくことを強くお勧めします。
株式会社レノプロテクトの腎臓検診は、「腎ドックⓇ」と称して検査サービスを提供しています。腎ドックでは、一般的な健康診断の項目に加え、より詳細な「アルブミン尿」、「シスタチンC」、そして正常に機能しているネフロン量を見える化する最新の腎臓バイオマーカー検査「ウロモジュリン」の評価などを行います。
なお、現実的には産後半年~1年後の腎臓検診で異常を指摘されることはほぼありませんので、過度に心配する必要はありません。それよりも、シスタチンCとウロモジュリンの「あなたの初回測定値」を確認しておくことがとても重要です。現在主流のクレアチニンは「腎機能が約半分失われたことを検出する検査」であるのに対し、シスタチンCとウロモジュリンは前向きに腎臓病を予防していくために役立つ検査です。HDPを経験した方においては、より前向きな腎臓の評価をお勧めします。
自身の腎臓の状態を早期に知ることは、決して怖いことではありません。塩分を控えめにする、適正体重を維持する、定期的に血圧を測るといった「未来の腎臓を守るためのセルフケア」へ繋げるための、極めて前向きな一歩です。
子どもを命がけで生み、育児に全力投球しているあなた自身の身体を、これからの長い人生のために、今度はあなた自身が労り、守っていきましょう。
